■TOP > イギリス60時間滞在記

■■■ 序章 ■■■

 座席の背中に埋め込まれたLCDモニタに写る飛行機マークは、BA008便がやっとロシア領空に入ったことを示している。機内食の後、パコパコとキーボードを打っている俺。さて、話は24時間前にさかのぼる・・・

■■■ 第1部 ■■■


「じゃあ、技術は佐藤君を行かせます」

と打ち合わせで決まったのは、昨日のお昼ちょっと前だった。そして午後、関係者が再度集まり、打ち合わせだ。そこで他部門からの同行者は同期のT君に決まった。T君はフランス滞在暦7年。今回はT君がツアコン状態になってくれるので、俺は技術のミッションに注力でき、めちゃくちゃ力強いぞ。それからはチケットの手配やら現地とのやり取りやらはT君に任せ、俺はミッションを成し遂げるべく、機材の準備やらすったもんだに奔走したのであった。役職になってからというもの圧倒的なデスクワークの多さに、埋もれていた機材一式を掘り起こし、いろいろ思い出し、準備は着々と進むのであった。



 午後7時過ぎ。「おお、早く帰らないとかばんが買えない。」と焦って帰宅。なぜかといえば、俺はまともなスーツケースを持っていない。洋服だけなら大き目のバッグで平気なのだが、さすがに精密機材を持っていくとなるとそれなりのケースが必要だ。

 そして矢部のダイクマに滑り込んだのが閉店2分前の7時58分。とりあえずその辺にあった”ゴロゴロ&取っ手伸び伸び”スーツケースを奪うように手にとり、速攻レジだ。でででで、でも雨が降って来たぞ。このスーツケースと持ち帰った機材一式と通勤かばんを手にチャリはつらい。いやつらい以上に不可能だ。俺には手が2本しかない。ここでは第3の手も役にはたたないのだ。

 そこで、おもむろに買ったばかりのスーツケースに機材一式を詰め込み、通勤かばんを肩にかけ、チャリンコ小僧の俺はがんばった。重いスーツケースは後部のサドルに載せ、雨の中、片手運転で十分賞賛に値する劇走をして家に着いた。

 荷物は混乱の極みだ。だっていつ帰れるのか分からない。仕事の機材も多い。もう服は最低限のものだけ。12時間もフライトしているため、ラフな格好で乗りたいのだがスーツを入れるスペースすらないのだ。ああ・・・

 でもデジカメの電池はたんまり持った。2週間も滞在することになったら、1日くらいは休めるだろう。



 そして朝の5時。眠い目をこすり最終チェック。まあパスポートだけは忘れること出来ないよねぇ・・・と。航空チケットもまだ未入手の状態である。そして外は雨。天気予報ではあと1時間でやむらしいが、今は雨。さてどうやって町田に着こうかと思案をする。
 1)弟に駅まで送ってもらう
  ⇒奴は6時ごろに家を出るのでちょっと申し訳ないなぁ・・・でパス
 2)近所のかみさんの友達に送ってもらう
  ⇒もう出て行ってしまった模様
 3)駅までチャリでがんばる
  ⇒さすがにスーツで大きなかばん二つ持っては傘もさせず、現地に着く前に力尽きそうだったのでパス

で、そう。残ったのは順当に「バスでいく」なのであった。 もう何年もローカルバスなんていうものに乗った事がなく、何となくいやだったが瀬に腹はけられない。かみさんがバス停まで時間を調べに走ると、6時14分というのがちょうど良くあった。

 子供を起こすとうるさいので、寝顔を見て家を出る。かみさんは傘を引き取るためにバス停までお供だ。別に別れを惜しむラブラブ夫婦というわけではない。絶対ない。断言してない。ないないない。しかし久々に乗ったバス、懐かしさで涙がちょちょぎれたぞ。そして20分後に町田駅に到着だ。そこで同行者T君と落ち合う。T君は昨年末に家を建てたらしい。なんと場所は我ら部署のエースHグループ長宅から歩いて30秒のところらしい。う〜ん、運命的だぞ。

 成田へはいつもならNEX(自腹)で行くところだが、今回は海外慣れしているT君のお勧めで町田の駅からの直通成田行き神奈中バスを利用。これグッドだった。6時50分発で、この日は横浜ルートが事故渋滞らしく東名ルートに変更だった。用賀の料金所で混んだがあとはスイスイで2時間で成田着。うん、これからはこれを使おう。






 フライトは12時半なのでずいぶん早く着いた、”インドネシア出張の時に寝坊して、同行者が横浜から電話をかけて初めて目を覚ました新潟出身のF君”よりはよっぽどいいだろう。チェックインをするも大好きな窓側はキープできず残念無念である。しかし12時間のフライトをエコノミーの狭いシートで過ごすのは拷問であるぞ。特に同行のT君は巨体であり、彼に私の通路側のシートを譲ってあげることにしよう。






"今はハバロフスク上空"

 そしてやっと搭乗の時間になった。ボーディングパスを機械に入れると、チェックインした時のお姉さんが近寄ってきた。結構俺的にはイカスお姉さんであった。
「すいません。ちょっとよろしいですか?」
といわれた瞬間は
「俺が4年前に起こしたスピード違反は赤切符でそれはすなわち前科ものってことで、出国できないんだなぁ・・・」
ととっさの0.128秒思ったのだが、0.256秒後には
「もしかしたらアップグレードか?」
と勝手にいいほうに想像して思わず頬が緩んだ、俺たち同期コンビであった。

 お姉さんの愛らしい唇が動き、
「すいません。こちらの席でお願いいたします。」
今回の苦行の出張に神様が与えてくれた、アップグレードなのであった。(^_^;)

 ブリティッシュ・エアーウェーは珍しく4グレードの席が用意されている。ファースト ⇒ クラブ・ワールド(ビジネス) ⇒ ワールド・トラベラー・プラス(プレミア・エコノミー) ⇒ ワールド・トラベラー(エコノミー)。今回はワールド・トラベラー・プラスというグレードになった(常時接続の人はここを参照)。これはシートと座席ピッチが広いものである。エコノミーは3-4-3、今回のシートは2-4-2。思うに8時間以上のフライトの場合は全部このシート構成にすべきである。

 そしてシートについている液晶テレビがロンドンまでの到着時間が”10時間4分”と示している今、第1部を終えることにしよう。さて第2部はどんな内容になるのか?幸運は続くのか? おおはまりするのか?・・・その先は「神のみぞ知る」なのだ。

第1部・・・終わり




■■■ 第2部 ■■■


バキッ、ボキッ、ポキッ!

 体かギシギシいうくらい座り続けた俺。トイレに一回立った以外は座りっぱなし。さすがにバテた。13時間俺のお尻を受け止めてくれたハイパーシートに別れを告げ、ヒースローのお姉さんが俺を待っていた。

「What purpose of your visit?」

なんて簡単な質問だろう?でも東南アジアの何も聞かれないパスポートコントロールより緊張したことは確かなのだった。しかし入国審査ってイミグレーションって言うんじゃなかったんだっけ?
・・・10年前の新婚旅行、頼る人がいない状況で、ひたすらニュージーランド・オークランド空港の”imigration”を探してまくり、最後の乗客としてパスポートコントロールを抜けてえらくホッとしたのが懐かしいぞ。

 で、荷物を受け取り、誰も居ない拍子抜けの税関を抜けたところ、そこはもうイングランドの地。



 しつこい白タクを追い払い、向かった先は本物タクシー。これはすごいロンドンタクシー。ブラック・キャブって言うらしい。昔ライクな古い車体のように見えて、実は中は最新型なのだ。運転席の助手席はシートがなくバッゲージ置き場。客室はびっくりするくらい広々とした空間だ。相撲がとれそうだぞ。ロンドンタクシーは番地をいえばそれだけで行き先がわかるくらいプロフェッショナルらしい。ほんとうかな?



 空港からの道中はもう日が暮れかけているため景色が良く分からない。しかし良く見ると道路わきの家はほとんどレンガ&出窓&煙突って感じで、築100年くらいしている家らしい。俺にとっては憧れのレンガの家だ。これでイギリス移住計画決まり!
 道はちょうど帰宅ラッシュと重なりトラフィック・ジャム。車を観察すると日本で流行りまくっているミニバンって言うものが全くない。車のほとんどが会社からの支給らしい。ミニバンは必要ないのね。そして某H次長の愛車、プジョーが多いぞ。

 そして渋滞のなか走ること1時間強、欧州本部に着く。50ポンド、約1万円である。とりあえず運ちゃんと驚かせないようにフラッシュオフで撮影ね。
現地時間は午後の6時。イギリス人は5時には帰る民族らしい。ワーカーホリックの俺としては、早速仕事に取り掛かかる。そして俺の仕事振りにえらく感心してくれた社長殿が近くの街に食事に連れてってくれた。でもやっぱり日本食なのね。う〜む、残念。




 今ホテルにチェックイン。現在時刻深夜の12時過ぎ。つまり日本時間-朝の8時。なんと俺は連続28時間起きていたことになる!! すごいじゃん俺!! やるじゃん俺!! こんな学生みたいな生活がまだおくれるぞ。ブラボー ランボー 野球帽!

でももう限界です。寝ます。明日は正念場だぁ。zzzz

第2部・・・終わり(ちょっとショートだけど)




■■■ 第3部 ■■■


フオォ〜

 イギリスの朝は・・・ ===⇒ 別に日本と同じだった。ホテルの窓から見える日の出の赤い空は、俺の心の情熱の色だ(ウソウソ)。

 ホテルのビュッフェで朝食をとる。そこにお姉さんがやってきて
「Tea or Coffie?」とな。
そりゃイギリスでっせ。茶、茶、茶だぁ、と
「Tea please」
別に普通の紅茶であった。高級なのかもしれないが、俺にはただの紅茶だ。所詮くるくる寿司が似合う男の俺なのだ。(こんなとこで卑屈なってどうする、>俺)

 ホテルから会社へは車で3分くらい。でも歩くと直線ではいけなくて遠いので、迎えに来てもらうのだ。

 さて仕事開始・・・内容はパスっていうか秘密よ、ウッフ。
打ち合わせは当然英語だ。当然関係のある内容なので理解度は50%。これが普通の会話だといきなり20%に落ちるのは、TOEICで情けない点数を取っちゃう俺にとってはあたりまえのことだろう。そして現地のスタッフ。彼らはほお擦りしたくなっちゃうくらいかっこいいぞ。名前だって”ケビン”。う〜ん、ナイス。日本スタッフに言わせるとケビンの英語は抑揚が無く、聞きにくいそうだ。でもF1で聞く英語もまったくこんな発音。いわゆるクイーンズ・イングリッシュなのだな。そして他の現地スタッフは・・・おお、あなたは天国からお戻りなさったのですね・・・って感じの、いかにもジョージ・ハリスンがいた。かっこいい・・・。もう鼻の高さは俺の3倍だ。でも胴の回りは俺の勝ち・・・って、なに言ってんだか。

 イギリスは個人の国? マネージャークラスは一人一部屋だ。いかにも映画に出てくるような部屋なのでちょっとうっとりしてしまったぞ。窓から見える外はどんよりの曇り空。なんとなく小雨も降っているし、これもいかにもって感じのブリティッシュ・ウエザーだ。
 しかしどうでもいいけど、夕方頃にめちゃくちゃ眠くなる。これが”時差ボケ”ってやつか?18時ごろだと日本時間は夜中の3時だから、それっぽいぞ。おお、時差ボケ初体験。ワンダフル、トレビアン、マーバラス!!



 そして夜遅く仕事を終え、前日とは違う街へ食事(日本食)へ出かける(⇒こんな街)。ここでは川島なお美も遠く及ばず悔し涙を流すことうけあい、T君の”ワイン道”を聞かせてもらった。俺にはさっぱり分からなかった。そんな俺は、

「だれか俺に機関車トーマスかマクラーレンの話を振ってくれれば、イギリス人以上の詳しさで話してあげるぜぇ」

と心で叫んだ。

 ホテルに帰る。11時半だ。昨夜もそうだったが、ホテルのレストランはいつも満員。イギリス人はカウンターで立ちながらビールを延々と飲み続け、くだらない話で盛り上がっているらしい。でも立ちながらっていうのがなんとなくサマになっちゃう民族なのねぇ。文化が違うねぇ。えっ?日本だって立ちながら飲んでる? おお、確かに一杯焼き鳥ってか?

 そして今は1時過ぎ、愛機Vaioのキーボードを叩きながらイギリスのテレビを見る。片手にスコッチでも持っていれば、俺はもう色の黄色いイギリス人って感じだろう。そのせつな、PCディスプレイを見ながらも、俺の獲物を刈るような目線(まあレースクイーンを捕らえる目線ともいうかも)は、テレビから一瞬流れたマクラーレンの画像を見逃さなかった。それはバルセロナでテスト中のマクラーレン。こんなにF1が身近なんて、すごいぞイギリス。すごいぞブレア。エリザベス女王万歳!!

でも眠い。大きなダブルベットにさびしく一人でもぐり込もうとしている俺なのだった。

第3部・・・終り











■■■ 第4部 ■■■


今はストックホルムの上空・・・ノーベル賞くださいまし

 さあ、帰国できるかどうかの運命の日、外は霧雨。けどさわやかに起きて、熱いシャワーを浴びる。スリッパを持ってこなかった俺は風呂上りに革靴状態なのだ。なんとも間抜けな図である。スリッパ、あると思ったんだけどなぁ・・・やっぱないんだなぁ・・・イギリスイギリス。ブッフェのおばちゃんともなんとなく10年来の友のように感じるから不思議だ、イギリスイギリス。

 そして仕事・仕事・仕事。日本と連絡を取り合うが、なんせ時差が9時間。こっちの朝9時は日本の夕方6時。連絡がとりあえる時間も限られている。すったもんだあったが帰国することになった。俺としては目の前に土日がゆれている、「ああ、なんて殺生なんでしょう、仏様」ってな感じで、キリスト様に頼まない俺なんでだめなんだなぁ・・・と非常にがっかりであった。夕刻にイギリス人のケビンがやってきておもむろに手を握って、

「今夜付き合ってくれないか?」って言われるのかと思ったが、
「佐藤さん、君がきてくれて助かったよ。ありがとう!」と、もしかしたら定型句かもしれないが、俺としてはイギリスに貢献できたことで、もうヘロヘロに満足したのであった、イギリスイギリス。

 そして夜も8時。現地の日本人スタッフが俺のあまりにもがっかりした顔を察してくれたのか(そりゃぁ、「ロンドンってどんなところですか?」とかたくさん聞いたもんなぁ)、ロンドンに連れてってくれるという。ホテルに戻り機材一式引き上げてきて物を置いた後、さあ、出発だ。ロンドンロンドン、ああロンドン。ルンルンルンルン、ワクワクワク。ロンドンロンドン。

 俺とイギリスの関係といえば、2つに絞られる。どうでもいいことだと機関車トーマスとか、魔女の宅急便(あれは絶対にロンドンがモチーフだね)とかあるけど、まずはF1だ。”レースチームで働きたいのならイギリスへ行け”なのだ。コンストラクターを支える部品メーカーなど、裾野がメチャクチャ充実しているそうだ。

 そしてもう一つ、やはり俺の青春に大きな影響を与えたのは”クイーン”だ。クイーンったって、本物の女王さまではなくて、ロックグループ・クイーンである。俺の武道館デビュー(見に行ったのだよ)もクイーンなのだ。晩年のクイーンは何となく受け入れがたい物があったけど、初期のクラシカルロックって感じのクイーンや、中期のカリスマ的なクイーンはもう最高すぎる。どっかのチームがチャンピオンになるとみんな”We are the champions”を歌い、”ドンドン、パッ”って足を踏み手を鳴らし”We will rock you”を歌っているが、俺にとってみりゃあ、「おまえらホントにクイーン様を知っていて歌っているのか?」と問いたいくらいだ。中学のころはありとあらゆるクイーンの本を買いあさり、楽譜を手に入れ、いまピアノもちょっと弾けるけど、それはボヘミアン・ラプソディーが弾きたくて学校のピアノで練習したのが始まりだったりする。

 そんななクイーンの初期の一大イベントとして忘れてはならない物に、ロンドンのハイドパーク野外コンサートがある。5枚目のアルバム”A night at the opera〜オペラ座の夜”を出した後のイギリスでブレイク始めたころのコンサートだ。それで”ハイドパーク”という名前を知っていたわけで、それを実際見れるとなると、長年の思いが一気に現実になるという興奮が体を駆け巡るのであった。このコンサートは今をさかのぼること25年前の1976年に20万人を集めた大野外フリーコンサートで、ローリングストーンズに次ぐものだった。しかしこの5枚目の”A day at the race~〜華麗なるレース”と4枚目の”A night at the opera〜オペラ座の夜”って言うのはコンセプトにのっとった、2枚組みって考えていいのだね。クイーンは初期のころやたら白黒だとか昼夜だとかコンセプトっぽい方針をとっていたのだ。これは俺のハートをアタックした。そしてこの4枚目と5枚目は昼はレース(馬のこと)で夜はオペラっていう、いかにも貴族っぽいコンセプトなのだな。

 クイーンの結成は、ケンジントン・マーケットで店を出していたボーカルのフレディーとドラムのロジャーの出会いから始まる。そしてそのケンジントンっていうのを聞いてみたところ、これはまた有名なところらしい。日曜になるといわゆる出店状態であたりが埋め尽くされるらしい。クイーン発祥の地に行ってみたかった・・・

 クイーンの大好きな曲の一つに”ブライトン・ロック”って言うのがある。3rdアルバム”SHEER HEART ATTACK”の1曲目、ブライアンがマエストロのエコープレックス(*1)を使ってお得意の一人3重奏を盛大に披露しているあれだ。このタイトルの”ブライトン”っていうのはイギリス南部の海水浴場の名前なのだ。曲の頭にかぶさっているSEは昔はサーカスか何かのように聞こえたが、これって海水浴場のことなのかなぁ、とエジプトのピラミッドで新たな発見のあといろいろ新説が出るのごとく、新しい解釈を得た俺なのだった。

 (*1):テープエコーの発展系で、ディレイタイムを長くとれるもの。記録ヘッドを再生ヘッドの距離とテープスピードでディレイタイムが決まる

 で、ロンドンへ向かう車に乗った俺は、平常の心拍数が64倍の上昇したのを感じた(おいおい死んでまうぞ・・・)。

 と、クイーンを語って4部が終わってしまった。結局6部ぐらいまで続きそうですのぉ・・・と書いて、4部を終えることにしよう。

次回は佳境、「ロンドン市内駆け足見物」を予告しておこう。
(今はヘルシンキ上空、ハッキネンいるかなぁ?)






■■■ 第5部 ■■■


ブロロロロローーーーー

 走り出したワンボックスの白タクもどきタクシーは夜のイギリスを快調に飛ばしていく。イギリスは左側通行なので車に乗っていても安心できてジョリーグー。仕事上多少の心残りはあったが、帰国のめどもついたため、車中の俺がすでに観光客モードに入っていたことは、ハッキネンが復帰することのないくらい、疑いないものなのであった。

 ロンドンより北10数km強の所に位置するホテルはいかにも郊外っていう感じであったが、ロンドンに近づくにつれ景観も明らかに変わってくる。おお、ロンドンロンドン。

 道が混んできた。街並みも自由が丘程度に洗練されてきた(ってったって、自由が丘は1度しか行ったことないけど)。そしてさらに進むにつれ、街並みは高級住宅地のさまを呈して来るのであった。そこは・・・車が違う、煙突が違う、大きさが違う、庭が違う。イギリスは思ったより貧富の差が激しいらしい。

 車は更に南下して、大きな公園の周回道路に出た。「おお、これがハイドパークか。やったぜぇ」と涙を流そうと思ったのだが、これはハイドパークではなかった。リージェント・パークという公園だ。こんな超大な公園がごろごろあるロンドンってすごいぞ。そして車は更に進み、いよいよロンドンの中心地に差し掛かってきた。街の建物はいかにも歴史を感じさせる石造りのもの。超高層建築っていうものがないのだな。

 H部長は運ちゃんと話をして、どうも”リージェント・ストリート”とか”オックスフォード・ストリート”とか言っている。俺に気を使い、せっかくなのでロンドンの中心地を歩いてみましょう・・・って計画。「いいねぇいいねぇ」下車下車。

それではこの辺で、数少ないイギリスでのデジカメ写真をご覧いただくことにしよう。
(画像をクリックすると拡大します)


こんな映画のような建物がありまくる。もううっとりすること受けあいだぞ。石系の建物は俺の憧れなのだ。

別に日光/東武ワールドスクエアではないのだ。見よ、なんとさまになるBMWなのだろう・・・




こんな建物が日本にあった日にゃぁ、「なんじゃこりゃぁ、趣味わりーなぁ〜!」って言われること必至です。

街角のコーヒーショップ? もう何でもすごく見えるところが、いかにもおのぼりさんだなぁ >俺




ユニオンジャックを見ると、マンセル〜って叫びたくなる俺。俺的には日の丸デザインはちょっとかっちょわりーと思っている。

ピカデリーサーカスへとカーブするリージェントストリート。このカーブが有名らしいのだが、「はぁ・・・」と答えた俺だった。




昔の警視庁っぽいぞ。

ロンドンはバスが絶え間なく走っている。ホントに赤くて2階建てであるのだ。




さあ、いよいよピカデリーサーカスへ。電飾が印象的だ。サムソン、コカコーラ、マクドナルド、TDK、三洋、ネスカフェ。

ピカデリーサーカスは大交差点。








■■■ 第6部 ■■■


もっといたい、朝までいたい、来週もいたい、ずうーっといたい!

 と、駄々をこねても良かったのだが、さすがに40を数年先に控えた日本男児として、サムライの心を汚すような恥ずかしい行動を控ることにした。H部長殿、M課長殿も家庭がある身だ。そんな俺の心を完全に見透かしていたかどうかは分からないが、H部長、ちゃんとしたブラックキャブを拾うなり、「○$ёЩ<%&$×△m(☆ЙЖ・・・」となにやら運ちゃんと話しておるのである。言葉の端端から”ビックベン”やら””バッキンガム”やら聞こえてくる。そうなの、名所をまわってくれるって。「おお、H部長、俺は貴方に一生ついていっちゃう」と、”その場の勢いで自分の人生を簡単に決めてしまう”、軽率な俺なのであった。

 ここで一言いっておくが、俺は”教養”っていうものが人より確実に少ない・・・と思われる。けど、片やデジカメや、模型や、F1やこれらは半端ではない知識を披露できるのだ。人生そんなものを披露する機会は極端に少なく、勢い、教養のないところだけが俺、ってことになってしまうのだ。まあ”普通”が嫌い俺にとっては、そのほうがありがたい。ロンドンに当てはめると、ピカデリーサーカスやビックベンなんてのは言葉で言われても分からないものだ。そんな時はすべてを納得させてしまう、”ジャパニーズスマイル!”。けど日本人相手にジャパニーズスマイルってもの変だぞ >俺。

 話を元に戻そう。

 ロンドンの中心地”ピカデリーサーカス”からタクシーに乗った我ら一行は、まず有名なんだか何だかよくわからない公園(⇒)の周りを通って、テムズ川へ出た。おお、これがテムズ川か。夜なんで全景が良く分からずちょっと残念。しかしここで最近のロンドン名物といわれている、ビック観覧車を見ることが出来た。なんとかホイールって言っていた。結構でかい。で、一つだけ日本との大きな違いがある。それはゴンドラ。我々日本人が思うゴンドラとは4人のり位の小さなものである。愛し合う二人が、はたまた仲むつまじい家族が乗れる、いわゆる核家族タイプである。ロンドンのそれはもう20〜30人くらいは乗れるような大きなものだ。ちょっと違和感ありまくり、であった。

 さてそこでUターン。車はどっちへ向かうのか?と思ったら「佐藤さん、ほらほらビックベンが見えますよ」と指差すほうを見ると、なんとそこには空にそびえる大きな時計塔がある。うん、見たことあるあれだ。あれがビックベンか。と、まさにイギリスのシンボルといえるビックベンをみた俺はまたまた満足度を上げ、デジカメのシャッターを切りまくった。そこで運良く信号待ちになったのは、何かのめぐり合わせだろう。

 車は走り、次なる見物はそう、クイーンのお住まい”バッキンガム宮殿”。そしてオーラスのハイドパークの横を走るのだが、これまた広い、広すぎる(事後調査でこの広いと思っていたのも、長方形の公園の短辺側だった!)。でも夜はただの真っ暗な闇としか見えないところが残念。

 と、ハイドパークを最後に、俺のロンドンはその短い時間を終えたのだった。ホテルに戻り、今回の出張をお互い感謝しあい、俺は駆け足のイギリスを思い返しながら眠りについた。




■■■ 第7部 ■■■



さようなら、さようならぁ〜

 と声に出すこともなく、3夜の疲れた俺を優しく包んでくれた”Holiday Inn”に別れを告げた。ホテルの代金は一泊80ポンド。約16000円なのだが、これでもコーポレート価格で安くなっているのには驚きである。通常料金は150ポンドくらいらしい。おいおい3万円かぁ。イギリスって本当に物価が高いなぁ。

 空港までは白タクだ。しかしホテルから呼ぶ白タクに不安はなく、料金はブラックキャブのほぼ半額と非常にリーズナブル。で、結局イギリスの明るい時間の街並みを見たのはこれだけだったので、右のような写真しかないのだな。道路は更に土曜の早朝なのでトラフィックジャムもなく、空港までは時間も30分と来る時の半分以下だ。こんなに近かったんだと思わずびっくりである。危険乗数をかけたのもあり、ヒースローにはフライトの3時間前に到着だ。なんてったって俺は人一倍に不安症っていうか安全係数を高く持つたちなのだよ。まあ世間一般には”小心者”って言う言葉もあるようだが・・・。で、全くの余裕・・・のはずだった。そうさ、人生いつも、不安は的中するものだ。アクシデントは二つあった。

 一つはチケット。今回はオープンチケットできたわけだが、このオープンチケットは72時間以上滞在しなければならないらしかった。そういえば、チケットのところの注意書きに72時間以内にリコンファームしなさい”って書いてありますなぁ。そんなことはつゆとも知らず、チケットの変更に行った同行T君はなかなか帰ってこなく、帰ってきてそのことを聞かされた俺はびっくら仰天だ。でもT君、海外滞在が長いことも合って、英語が達者。ブリティッシュ・エアウェーの人たちと堂々渡り合って、無事帰りのチケットをゲットしてくれたのであった。持つべきものは、英語力であるのだよ。

 しかし無事チケットをゲットできた俺たちに待っていたのは、土曜から遊びに行くのはどうかは知らないが、超大渋滞なチェックインカウンターであった。われらを母国日本国に運んでくれるはずのBA便は11:30のフライト予定であるが、10時になってもモニタに映し出されるBAは”Wait”の表示。いくらたってもWaitなんで、これまたT君その辺の職員に聞いて”多分この列に並んでればOKだろう”と教えてもらい、その列に並んだらビンゴ。しかし列は1時間弱続いたが、無事チェックインできたのであった。

 しかしそのあとはあっけない、本当にあっけないX線検査だけの出国手続きを終え、入国印も出国印もない、「俺は本当にイギリスに来たのか?」と思うようなパスポートを受け取ったら、そこはもうデューティーフリーショップ。しかしお土産やに向かうも、もうボーディングが迫っていたのであった。職場へのお土産は時間もないのでパス。飛行機へはバスで空港の外れまで行かされるのは日本の地位の低さに起因するのであろうか?

 しかし、ここからは最後のトリを飾るアクシデント。フライトの時間になっても飛行機が動かない。やっと動き始めて、「おお、イギリスよ。さらば」と心の声でささやいたのだが、滑走路でも飛行機は飛ばない。延々と「離陸許可が出るのを待っています」とな。もらった日経新聞も端から端まで読んでもう暇になりかけてた頃に、

「この飛行機は待機状態が長かったため燃料が足りず、一度給油に戻ります!!」

おいおい、あまりにも情けないんでないの? 海外渡航なんてそんなに経験ないけど、こんなのあり?
 結局2時間遅れの離陸であった。日本への帰国は時点と逆らう方向なのですぐに夜になる。すぐに機内食が出て、あっという間に暗くなり、精神的に疲れていた俺にはすぐに”眠りの神様”が舞い降りてきてくれた。起きたり寝たりの繰り返しであったが寝られたほうだろう。

 しかしショックなのは到着ロビーで見たフライト状況だ。次の便はヒースローを2時間半後に飛び立つ予定なのだが、到着で見れば我らが1時間半遅れで、次便は15分早く到着。なんと目視できるのちゃう?ってくらいの20分後を追いかけていたようで、到着がほとんど同じ時間だ。この遅れで、予定していた町田行きのバスには乗れず、しょうがなく、新百合ヶ丘行きのチケットを買いなおした。町田-成田便のチケット余っちまったぞ!

 家に着くまで一度も電話を入れていなかった俺は、家族のびっくりする顔を見たかったのだが、子供はそれほど驚くこともなく俺を迎えたのには少しがっかり。そりゃぁ数日だもんね。日曜に家に着くっていうのは最悪の損で、休みを剥奪された俺は、6時には寝に入り、イギリスでの生活を思い返しながら熟睡したのだった。しかしそのときは1ヵ月後に更に・・・なんて予想することも出来なかったことを伝えておこう。

THE END