それほど裕福ではない家庭に育った管理人は、小さいころから「買えないものは自分で作る」ということが半ば普通な生活を送っていた。前にとあるテレビ番組の収録が会社に来て、数週間張り付かれたとき「この部品が無いんですよねぇ。まあ無ければ作っちゃいましょうか」と言ったらめちゃくちゃ驚かれた。世の中はそういうものみたいね。
父親の趣味が写真であり、小さいころから週末の夜は部屋を暗室にして現像や焼付けの手伝いをしていた。定着液のあの独特の酸っぱい匂いや、感光しなようにした赤いライト、現像液につけるとじわーっと写真が浮き上がってくるところ、露光時間と絞りと現像時間の関係等々、今でも鮮明に記憶に残っている。私の趣味のひとつが写真であるのは、そういう背景があったことは否めない。またポジフィルムでスライド上映なんかもよくやっていた。子供の年齢が近い近所の方々を呼んで、土曜の夜にワーワーキャーキャーと言いながらスライドとスクリーンに投影したもので楽しんでいた。そうそう、収集癖も父親から遺伝したものと思われる。中学高校の頃は父親のミノルタSR7+200㎜望遠を持ち出して、体育祭や運動部の写真を撮って、大判印刷までしてパネルに貼って実費をいただいていた。
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管理人I am・・・
子供のころは電気いじりが好きだった。ある時は捨てる前のテレビの中をあれこれ触って、大きなコンデンサに触れた瞬間「びりびりびりびり」と感電も体験した。感電するとそこに手が吸いついてしまうのも分かった。小学校高学年になると電気いじりも本格的になって、どういう電気本を買えば勉強できるかな?と思ってとりあえず買った「ラジオの製作」。月刊誌は一度手にするとやめるタイミングが難しいね。その後数年「ラジオの製作」を買い続けた。「初歩のラジオ」はどちらかといえば硬派、「ラジオの製作」はなんとなく緩い本だったような気がする。ミスミとモノタロウ、アルプスとミツミ、ソニーとビクターみたいな感じかな。
電子工作をするためには部品が必要である。現在のようにポチれば送られれ来るなんてことは無い時代であり、秋葉原に行くことは必然であった。今でも覚えているが、小学校4年の時に父親に連れて行ってもらった秋葉原は、とても元気があって、怪しい感じのオーラで包まれていた。ラジオ会館、ラジオでパート、ガード下、ひと間のエリアに所狭しとぎゅうぎゅうに押し込まれた部品の向こうに立つ店主は、大人の世界への入口のようでもあった。その後は一人で秋葉原に行くようになったのだが、ひとつ事件がある。部品を買い忘れたもの知らずな子供(私)は、「この部品を送ってください」を部品表を書いて封筒に部品代金(硬貨)を入れて送ったのだった。当然現金を封筒に入れることは許されておらず、郵便局からお叱りを受けた。子供ながら自分のバカさ加減に呆れた。
当時、電気いじりが好きな子供は誰もが「アマチュア無線」に走った。私もご多聞に漏れず6年生の時に、蒲田の電子工学院に行って試験を受けた。まだ電気の基礎もよくわかっていなかったので不合格。半年後は気合を入れて勉強=暗記で、無事免許を撮ることができた。従事者免許は一生モノであり、今でも小学校の自分が写っている。退職後に一陸特の免許を取ったが、その時必要だった自分証明は同じ電波管理局管轄ということで、この小学生が映る無線従事者免許証が使えたのには笑ったね。開局は機器も安かった50MHz(6m)で、今ではicomなんてかっこいい名前になっているが、当時は井上電機のIC-502を買った。ちなみにケンウッドはトリオだった。最初は安いアンテナを建てたが、次第に高くていいものを買うとそれなりの成果を得られる・・・という変な信仰に侵されて、屋根上にタワーと6エレのでかいアンテナを自分であげた。毎日「CQCQ・・・」とやっていたのが懐かしい。彼女ができると(今の奥さん)、彼女にも免許を取ってもらった。50MHz帯はそれほど遠くまで更新することができないが、夏になると突然発生する電離層(Eスポ)で、沖縄や北海道との通信が、すぐ近所なくらいの電波強度でできることは驚きだった。自然はすごい!
アマチュア無線を始めてよかったことはいろいろあるが、その一つは「大人との接点」である。中学生のお子ちゃまが全く知らない大人との話ができる。そして近所のアマチュア無線家の方々と仲良くなって、あちこちに連れて行ってもらったり、ご自宅に呼んでもらったり、普通じゃできないような経験を得た。いろいろな経歴の方、女子高の先生、動物病院の院長、妖艶なおばさま、普通のサラリーマン、子供ながらいろいろなキャラクターの大人と接することができたのは財産である。ちなみに自分としは話すのが好きだし、それなりに上手いと思っている。後年はあれこれ「講演」なども行ったが、それはこの時の経験が生きているのは間違いない。
中学生になるとアマチュア無線と平行して「音楽」が好きになった。中学ともなるとマセガキが沢山いて、彼らから「ロック」を伝授された。その時聞いた「クイーン」には衝撃を受け、それは今でも続いている。音楽ってのは聞くだけじゃ満足できなくなって、そのうちに楽器を弾きたくなるのは自然な流れである。私もその流れに乗って、安いアコースティックギターを買った。そして友人から「バンドやろうぜ、佐藤はドラムな」と言われたが、ドラムなんてやれるわけがない。それ以降まともなバンド活動はしたことがないのである。
やっぱりエレキギターが欲しかったのだが、買ったのは高校に入ってからである。楽しかった高校生活、音楽に打ち込んだ。彼女も出来た。高校1年の時に入った部活の3年生のY先輩、もうとろけるような蜜月機関を経て、秋に告白して付き合い始めた。これをかみさんに見られると口をきいてもらえなくなるのじゃないか?と思うが、石野真子似の超かわいい先輩だった。残念なことにY先輩としか呼べなかったように、Y先輩は年上であり半年後に卒業、そして淡い恋も終わった。高校生活は本当に楽しい3年間だった。
さてピアノ。これは憧れの楽器であったが、家にピアノがあるようなハイソな家庭ではなかった。そんな頃、部室にピアノがあって、憧れのピアノデビューが出来た。当然へたっぴーである。しかし毎日クイーンのピアノ曲を弾いていたら、なんとなく、それっぽく弾けるようになった。当時は「ボヘミアンラプソディー」ばかり弾いていた。実はうん10年後(今から数年前)に、弟の奥さんが職場でとある女性と知り合った。びっくりなことに部活が同じ同期の女性であった。世間話から私にたどり着いたらしい。当時映画ボヘミアンラプソディーが大ヒットした直後で、その彼女は「あれ聞いて佐藤君を思いだした」と言われたらしい。ハハハハハ…。さて我流であったため、みるみる上手くなっていった、ということは全くないのだが、まあそれなりに弾けるようになった。退職した今現在、エレキギターやアコギ、ドラム、ベース、と楽器に囲まれているが、実は一番弾いているのがピアノである。エレキギターやベースはバンドでやってなんぼであるが、アコギとピアノはそれだけで世界が完結するからってのが大きいね。
進学はやっぱり工学部である。大学での講義で唯一頭に残っているのは「フーリエ変換」である。時間軸と周波数軸の関係が計算できるってのに感銘を受けた。たくさんバイトもした。面白いのは、宮内庁ご用達・青山の肉屋の配達である。免許取り立てで午前は都内、午後は箱根や日光のプリンスホテル、またオリエンタルランドとかに「〇〇(肉屋の名前が入ります)でーす。肉もってきました~」と。車の運転はここで覚えた。もう一つは小田急のバイトで、駅のポスター張り替えと車中広告の取り換えである。今になって思うけど、バイトは自分が仕事にしないような仕事を経験できていいね。
大学生活もあっという間に過ぎて、人生最大のイベントの一つ「就職」が目の前に迫ってきた。将来はオシロスコープを使うような仕事がしたい、と思っていた。なんかかっこいいから・・・。そして当時誰もが知る有名なメーカーの就職した。しかしその時有名なところはその時がピークであることが多い。それはやっぱり今になってわかる。チャラチャラしないで堅実なB2Bのメーカーが、結果としては正解だったとは思うが、誰もが欲しい、そして持っている民生品を扱うメーカーへの誘惑は強いのだ。
入社してバリバリな電気系開発者になる・・・と思っていた。しかし300人以上いる同期、当然私より学歴が高い人なんて山のようにいるのである。当時一番大きな事業部に配属され、その後2週間の研修ののち、実配属部門が決まる。人事が技術ヒエヤルキーの上から名前を呼んでいく。「○○君、〇〇研究所」「○○くん、開発部」「○○君、〇〇技術部」・・・そしていずれも私の名前は呼ばれなかった。そしてもう残る部門は生意気に言えば、ちょっと勘弁してほしい・・・という部門だった。最後から3番目の「□□部、佐藤君」と呼ばれた。正直、終わったと思った。
配属されたのは、当時売れ盛りで世界を席巻していた民生機器の、心臓部となる機構部品の設計部であった。心臓部だか何だか知らないが、それは機構ものであって、抵抗やコンデンサやICなどが基板に狭しと並んだものではない。切削や接着剤や機構図面の世界である。しかし入社早々辞めるわけにもいかず、とりあえず石の上にも3年と心に決めた。目標の3年がたつと仕事にも慣れ、かつその機構部品の中でもすこーしだけ電気っぽい所作~実際には極小の信号を伝達する磁気部~をする部位を任された。何度かに組織変更を繰り返したが、数度目の組織変更で上司になった浦さんがいなかったら続けられなかったかもしれない。
この事業はある時期世界を席巻したのだが、その機器の超複雑な機構を開発したのが浦さんである。浦さんは長崎の島から東京に出て来た高卒でたたき上げのおっちゃんである。すごくいいひとで、私が落ち込むと「佐藤君はメカ屋の中の唯一の電気屋だから」と励まし、丁々発止となる電気屋やソフト屋相手の打ち合わせにも若いころから呼んでもらった。晩年は「佐藤君のホームページ毎日見てるよ」と言ってくれたのだが、残念なことに定年退職の数年後亡くなってしまった。浦さんとは定年後にもっと話がしたかったのに・・・
さてその微小信号を取得し伝送する部位であるが、私に一人のメンバーを付けてもらった。それが石井君である。優秀な石井君とのコンビは最強でもあった。どちらかといえばフロントマンでリード役の私と、それをきっちりと支えてくれた石井君。彼なしではその後沢山の新フォーマット案件はこなせなかっただろう。
その後のアナログからデジタルへの大変革期がやってきた。デジタルは「符号間干渉」を上手く使い「パーシャルレスポンスとビタビ復号」という仕組みで、ビット誤り率を劇的に低下できるのである。自分の頭ではどう考えてもこんな発想は出ないね。余談だが、今やっているレースの仕事でかかわっている、超大手通信会社の方は、ビタビ復号を考案した「ビタビさん」に会ったことがあると言っていた。すげーなー。このデジタル方式の機器は恐ろしく精度の高い機構を要求し、信号を取得する部分がその性能の肝になった。つまりそこがダメだと一気にゼロなのである。ということで、デジタル機器になってその品質のあれこれは佐藤が握っている(少し誇張しています)となった。欧州に何度も出かけた「明日行ってくれの海外出張」はこのためである。
とんでもないエネルギーを費やして開発した機器も、そのフォーマットライフは以前のものに比べ短いものになった。そして我らの「機構部隊」はそれを必要とされなくなった。一時代が終わった。信号を取得して伝送することは、長らく石井君と二人で取り組んできた。世界でもその機器メーカーがそれほどあるわけでもない。ということで、その分野にかけては、我ら二人は世界の10本指に入る技術者だった・・・と自負している。入社時に辞めてやると思った部門で、そういうプライドをもった仕事ができたのは幸せだった。
さて猛烈サラリーマン時代に、部門にいた女性と付き合うようになった。当時会社には若い女性が沢山いた。その中の一人、秋田から出てきた1年先輩だけど、3つ年下で素朴な彼女が今の奥様である。当時行きたくないと思っていた部門だったが、今となっては彼女と知り合うことが出来て良かったと思わないわけにはいかない。ちなみにその部門に配属になった同期は5人いたが、そのうちの4人はさくっと部内社内結婚である。そういう時代だった。30過ぎまで結婚しなかった同期はそれほどいない。いろいろあったが一男一女を授かり、楽しい家庭を築くことができた。社宅を4年で後にし新居を構えることができたのは、かみさんが家のあれこれをやってくれたおかげである。ローンも繰り上げ返済を繰り返し、早期に完済したのも彼女のおかげである。
個人的にはF1にはまり始めた。雑誌を沢山買ったしレーザーディスクも買った。そして、工作好き×F1=タミヤF1プラモデル収集が始まった。当時タミヤ1/20モデルが定価1200円、昔の1/12ビックスケールモデルが4000円、大体2割引きなのだがセールだと3割引き。初めての子供がそろそろ生まれそうな土曜日、会社の等級試験のための研修から帰ってきて、八王子ムラウチホビー館がセールに行った。「やばかったらすぐに戻るから」と行って相模原の社宅から車を走らせた。しかし八王子について電話すると「もう限界」とヘルプが入ってきた。当時有料道路だった八王子バイパスは使ったことがなかったが、今日はそんなこと言ってられん・・・と、飛ばして帰ってそのまま病院へ直行。20時には「これ以降は病院にいられないので、何かあったら電話します」と言われ、家に戻った。そして家に帰ってすぐに「生まれました」と連絡があった。ここは子供が生まれた話ではなく、模型収集に努めた話しである。つまり収集癖が発揮され始めた頃の話しである。
模型収集で一番気合が入ったのは、恵比寿にある「ミスタークラフト」のバーゲンである。高価な1/43のホワイトメタルモデル、タバコデカール、モデラーズのフィギュアなどなどが格安なのだ。もう一店は吉祥寺にあった「Wave Be-J」である。残念なことに2店とも閉店してしまった。これらの店には精密完成品が飾ってあって「こんなの俺には作れない」と意気消沈させるくらいの破壊力がった。
子供が生まれると誰もが写真を撮りたくなる。自分の子供ってこともあるが、やはり小さいものはかわいい。今まで使っていたコンパクトカメラを一眼レフにグレードアップ、定番の28-70mm/F2.8レンズも買った。しかし一眼レフを買うと「レンズが交換できる」という魔力で沼に落ちることは明白である。もともと写真好きの遺伝子を持っている。すぐに「一眼レフ×F1=望遠レンズ」となるのは誰もが予想できるだろう。父親に言わせると、なんだそのメーカー・・・となるのが明白なシグマ 400㎜/F5.4を買った。初めての400㎜に驚いた。望遠鏡じゃん。確かに格下のレンズ専業メーカーのシグマであったが、その後どんどんクオリティーを向上させた。今では本家に負けずとも劣らないメーカーになった。そしてその400㎜はしばらくF1撮影に貢献したのだった。
自分では意識してあれこれ始めないようにしている。ゴルフもスキーもやったことがない。やったら楽しくてはまることが分かっているからである。しかしある時期パソコンを買ってしまった。案の定その時からパソコン漬けの生活が始まった。まあパソコンは出来ないと生きるのに大変な時代が来たのでまあ良かったと思う。他にはまったのが、カメラである。このサイトを立ち上げるきっかけになった、99年鈴鹿マクラーレンパドッククラブであるが、その後もロックタイトさんからGTへの招待が続き、沢山の写真をブックレットにしてお渡ししていたら、「佐藤さんはもうスタッフですね」と言われた。ロックタイトさんがGTから撤退しても、レースに行き続けた。毎レースフィルム20本もとるとその費用が重くなってきたし、アナログなフィルムはPCへ取り込むのも大変ってことで、撮影のデジタル化を推進した。ここでもいいものがあるといい写真が撮れると思い込み、カメラやレンズが増えていった。極め付きは500㎜/F4の大砲である。カワセミ撮影に活躍したが、今はこんな重いもの振り回せないな。
他に言えば、折り畳みミニベロで輪行にもはまった。寄居まで八高線で行って荒川を下り、葛西で海に出て新宿に戻る、というのは何度もやった。安いギターを買ってきて、切った貼ったも楽しかった。しかし今から思えば、サラリーマン時代によくこれほどの遊びをこなしたと思う。
さて30代半ばになると、管理職となり責任も増えた。性格というかはまり役というか、どちらかといえば「開発を回す」リーダー的な仕事が増えた。ただしリーダーが自ら設計に入り込んではいけないのが辛かった。メンバーが手がけているの見て、面白いのがよくわかったし手を出したかったが、ここはあえて控えた。まあ控えなければいけないくらい、対外調整や報告や予算や事業計画~ビジネスにしたらいくら儲かる・・・っていう、まあ事実語ったら始まらないよな~的な資料作成が背中にドンと乗っていた。しかし今までの社内での仕事とは違った、外に出ての人とのやり取りは面白かった。
私の中の開発で、強く思い出に残っているものが三つある。その一つが2足歩行ロボット開発である。機構部門がシュリンクしていく中、何かメカを生かしたものが出来ないか?ということで始めたのが2足歩行ロボットである。実はこれは私が始めたものではない。始めたのはNさん。めちゃくちゃアカデミックで頭がよい人が始めた。3号機の途中から私にそのリード役をするように仰せつかった。超少人数であの大作を仕上げたのは、自分で言うのもなんだけど、絶賛されることであった。米TIME誌の「COOLIST INVENTION」に選出されたり、米ABC放送に出演したり、世界のあちこちでデモを行った。アジア欧米も良かったが、やはりドバイでのデモはとてもエキサイティングだった。いつかこのことも書きたいと思う。当時の日本はロボットブームで、ホンダやソニーなどから完成度の高いロボット発表されていた。しかし日本企業は始まりでは力が入るが、すぐにシュリンクしてのちに終了、そしてそのあとを中国がサルベージするという構図から抜けられないと思う。あのまま一人ででも続けていられたら・・・と思うことは多いが、出来なかったことをあれこれ悔やんでもしょうがないな。
ロボットほどでもないが、少人数ででデモ機を作ったのは「自動運転カー」である。ある時〇〇な(いろんな言葉が入ります)会長とエレショー改めCEATECに行ったとき、自動運転っぽいデモがなされていた。こんなのうちでできたらなぁ・・・とつぶやいたんで、「出来ますよ」と言ったら「ロボットやっていたならやってみて」と言われた。そして某社の車で自動運転カーを作って、遠い研究所の敷地を使って実験をした。基本は大きなラジコンである。センサーを沢山積んで周辺や自分の位置を知って、突然の外乱にどう対応するかというのを作った。①センサーで認識して→②ソフトで考え→③デバイスで実行するという流れであるが、①と③は技術進歩で解決するが、難しいのは②なのである。右にハンドルを切れば老人を5人ひいてしまう、左にハンドルを切れば子供を一人ひいてしまう。この選択を迫られたときにどういう判断をすればよいか?正直分からない。
ロボット開発は数名のチームだった。事業を探る意味というチームである。しかしゼロから製品を作るのに匹敵するこの開発を、この数名で行ったのは自分としてとても誇れることであった。メカ屋の集まりであったが、メカしか知りませんなんて言える場合じゃない。プロモビデオやカタログ、配布するカードなども自分で作り、カラーリングやシェイプはデザイン部の同期に意見を求めた。外装の分からないところは外装チームに行っていろいろ教えてもらった。その時「この前、なんか試作がすぐできるようなプレゼン受けたけど」と言われたのが、新しいもの作りである「3Dプリンタ」であった。すぐその試作メーカーに連絡をして、試しで作った試作外装には驚いた。数日でこれだけのモノがこの価格で作れるなんて・・・。それ以来「3Dプリンタ」は欲しい機器のトップになっていた。
時は流れ、新しい開発部門に外部からの責任者が就任し、そこに移動になった。とても変わった責任者だったが、欲しいものを買いやすい環境になった。そこでチャンスとばかり、インクジェット型の3Dプリンタを導入した。1,000万円くらいの機器だったが、代理店が勝手に競っちゃって半額強で購入できた。自部門だけで使うのはもったいなさ過ぎるので、全社に案内し使ってもらえるような仕組みを作った。ある時会社のトップが「うちも3Dプリンタみたいなものを導入しないとだめよな」と。3Dプリンタが社会ブームで盛り上がっているのを聞いたから、ってのがありありである。ちなみにえらい人は下からの声はあまり信用しなくて、外から聞いた話を信用しやすいという特性がある。まあそんなことはどうでもよいが、それはチャンスでもあった。「佐藤君が数年前に3Dプリンタ導入して活用していますよ」と横にいた役員が言った。これでさらに活動がしやすくなった。3Dプリンタは試作ステージで大活躍するのは誰もが認めるが、私は今後増えるだろう「多品種少量生産のためのツール」にしたかった。つまり量産で使うということ。設計を変えなくてもよいが、設計を変えれば部品在庫を持たなくてよい、という大きなメリットもある。こういう活動が外部にも届き、大きな展示会や大学、企業、勉強会などで、講演することが増えた。聞いた話であるが、調査会社のレポートのような講演より、実際にどう立ち上げ、どう運用し、どう量産につなげるか?みたいな話しのほうが断然ためになる・・・と言われた。資料などを読むことなく、勝手に口が動いているように話すことができたが、今は年をとって言葉もタイムリーに出てこなくなった。話をする機会が減ったからだろうが、やはり何事も続けていることが衰えない一番の方法とよくわかった。
会社での最後の奉公が、生産の自動化であった。生産販売会社であるからして「生産」を避けることはできない。小声で言えば、OEMやらODMやら、生産から離れて利益を出す部門も増えてきたが、それでも主になる事業は生産は重要である。設計開発一辺倒だった私は、大きな声では言えないが「生産」を格下とみなしていたことは否めない。しかし生産にかかわると、今までの人を主体とした生産から、自動化をすすめることはとてもチャレンジングな仕事であった。設計も生産しやすいように変える、ライン構成も変える。こういう大変革はトップの強力無くしては成しえない。生産の自動化というと、人件費高騰にすぐ結び付けられる。その要素も大きいが、実は「生産品の安定品質」というのがその効果ではないかと思っている。
ロボット開発も3Dプリンタも、トップを巻き込んで仲間につけ進められたことが大きかった。実は自動化の指令を受けたのも、ロボット開発をしていたことが大きかった。新人も「ロボット」と書いてあると、私の部門に無条件で配属されてきた。リトルベッツという考え方が好きである。一気にお金をかけてドーンと物事を進めても、かけた投資に見合うリターンを得るのはとても難しい。やはりリトルベッツ(少しお金をかけて、少しのリターンを得る)を繰り返して開発していくのがいい。そのスピードを許容できるか?は経営の判断である。考えるところあって早期退職したが、草案した自動化の進め方・骨子は志を共有してくれた、ガッツある方によって着実に進められている。うれしいことだ。
いいことばかり書いたが、役位が上がってくると仕事がつまらなくなる。言い方が悪かった、面白い仕事以外のどうでもいい仕事(語弊あるかも)が激増する。ストレスも激増する。そんな2020年の正月早々、朝の5時50分、家を出てすぐの暗い道で車に追突され救急車で運ばれた。春にはあまりにもな激務とストレスで帯状疱疹になって人生最大の痛みでのたうちまわった。もう十分仕事したと判断して、会社を後にした。就職・結婚と並ぶ人生の大イベントだ。
会社生活で学んだことは以下である。
・経営を味方につけること
・一気にお金をかけてないで、少しの成功を繰り返して大きくしていくこと
・失敗は悪いことではない、小さな失敗は成功の授業料であって、大きな失敗をしなければよい
・チーム運営は、方針を末梢血管まで共有してもらい、仕事を責任を担当者に任せ自分で考えてもらうことに尽きる
・開発をやらせてもらえるのは山登りを見せる、ゴールを見せて途中成果を見せて得られるものを明らかにすればよい
・ひとの喜ぶ顔を見たい
会社を辞めて、やりたいことだけ趣味生活にどっぷり浸かるという、夢のような生活が待っていた。と思った。が、そうは問屋が許さない。会社でちょっとレースに関する仕事もしていたのだが、その相手先の責任者の方から「佐藤さん辞められたのなら、いろいろやってもらうことできますか?」と。基本、頼まれたら嫌と言えないたちであり、レースか面白いな・・・と思い、決断した。無線の免許があると他の仕事も頼めていいんですけど、と言われたので、とりあえず一陸特を取った。国家資格取得で久しぶりの勉強は結構楽しかった。免許が送られてきたときはニヤニヤしていた。じゃあ次は一陸技を取るぜ、と参考書も買ったが、一陸技の内容はめちゃくちゃ難しくて、すでに参考書はどこかにしまわれている。
レースの仕事は、うまく進んでいない開発案件をサポートしてほしいということであった。開発主体はオランダの会社であり、その後仕様まとめやらデモ試作を作ったりして、数年かかって現場で使われるものにできた。今はこのシステムを使って毎レース、コントロールルームで仕事をしている。ここで知り合った大レース会社を退職して起業した方と、規模の大きな機器の開発・試作を行うようになった。また3Dプリンタで知り合ったメーカーさんから、CAD関連の試験を行う団体への参加を求められた。社団法人に参加ってのは初めての経験だが、なかなか面白い。元同期(一緒にロンドン行った外人にしか見えないやつ)から、転職した会社でロボット関連開発が上手く行っていないので手伝ってほしい、と言われ、大手会社と契約した。元の会社からもアドバイスや設計の仕事もいただいている。これらはもう終わっているものもあるし、まだ続いているものもある。しかしだいぶ仕事も少なくなってきて、今年は本当に趣味に明け暮れようと思う。
プラモデルを作って、セナマクラーレンモデルをコンプリートして、ピアノを弾きまくり、アコギを弾きまくり、久しぶりにエレキギターを弾きまくり、アレンジをしまくり、マルチトラックレコーディングをしまくり、買ってから半年以上放置してある超望遠で鳥撮影に復帰したり、ドラムを叩きまくり、毎日散歩をして、週に一度サイクリングで江の島に行き、週に一度高尾山に上って、年に4回は大きな旅行に行って、南の島をドローン撮影して、たまった映画をシアターで見まくって、海沿いで日本一周をしたい。そして、新しいレースのシステムと映像システムを開発して現場で使ってもらう。
まだまだやりたいことばかりな私であります。
以上
